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週刊ベースボール連載「ベースボール博物館」
その82 ロス五輪優勝メンバーのサインプレート

昨年のWBCも土壇場から起死回生の優勝だったが、1984(昭和59)年、五輪史上初開催の野球競技(当時は公開競技)で金メダルに輝いたJAPANも、ある意味奇跡的だった。そのチームを指揮したのが、今年特別表彰で殿堂入りを果たした松永怜一。1931(昭和6)年福岡県生まれ。法大を卒業後、法政一高の監督として2度甲子園出場。65(昭和40)年から6年間の法大監督時代には山本浩二、田淵幸一、富田勝の三羽ガラスを育て、その後社会人・住友金属の監督などを歴任した。

そんな松永が五輪代表の監督を要請されたのは、84年の大会直前のこと。実は、日本は前年のアジア選手権で韓国、台湾に敗れてロス行きの切符を逃していたのだが、突然、政治問題からソ連など東側諸国が大会をボイコット。予選を勝ち上がっていたキューバも不参加となり、急きょ、日本にも出場権が転がり込んできたのだ。7月下旬の開幕の1カ月前に編成された急造チームは、大学生を含めた平均年齢22.5歳。だが出場メンバーには伊東昭光(本田技研)、荒井幸雄(日本石油)、広沢克己(明大)など、後にプロに進むものが16人もいた。

短すぎる準備期間の中で、松永は礼儀作法など細かい部分から徹底指導をした。基本を反復し、実際の頭脳的プレーへと結び付けていく、それが松永の指導法。大会に入ってからも練習・ミーティングを繰り返し、そして会場のドジャー・スタジアムの素晴らしさと、毎試合4万人を超す観衆の熱狂が、血気盛んな選手たちの闘争心をかき立てた。予選リーグでは宣銅烈を擁する韓国を破り、準決勝では剛速球右腕として世界の注目を浴びていた郭泰源を5回KO、延長サヨナラで台湾に雪辱。決勝も、メジャーの卵たちがそろう地元・アメリカを広沢の特大3ランなどで下し、輝く五輪初代王者となった。

写真のプレートには懐かしのイーグルサム(大会マスコット)を中心に、山本英一郎団長以下、監督・選手らのサインが並ぶ。「選手のため、チームのために命がけで取り組む」という松永の情熱の下、球史の偉業を成し遂げた20人の若きサムライたちだった。

(文責=編集部)

掲載号/週刊ベースボール 2007年2月5日発行 第5号
取材協力/財団法人野球体育博物館
※記事は掲載時のまま転載しております。会期の終了した企画展や、現在は館内で展示していない資料を紹介している場合があります。ご了承下さい。


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