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週刊ベースボール連載「ベースボール博物館」
その34 1935年巨人渡米遠征 沢村栄治ネームプレート

いまからちょうど71年前の1935(昭和10)年2月14日、アメリカ大陸で野球修行をするために日本を旅立った一団があった。市岡忠男総監督、三宅大輔監督率いる大日本東京野球倶楽部の20名の選手たちである。

アメリカに向かう途上で「ジャイアンツ・巨人」の愛称が決まったこの遠征。3月2日から延べ128日間、パシフィック・コースト・リーグ(現AAA級)のチームなどと計109試合(結果75勝33敗1分)をこなす、文字通りのハードスケジュール。カリフォルニア、メキシコ、カナダ、そしてシカゴなどの中西部と約2万km。暑さにうだり、寒さに震え、睡魔と空腹(金銭的にも厳しかった)という極限の中で戦うこともあったという。

チームの中で、日系人のみならずアメリカ人にも知名度が高かったのが伝説の投手・沢村栄治だ。写真はこの大遠征時に沢村が着けていたネームプレートで、布には「NIPPON TOKYO Baseball Club American Tour 1935」とある。前年34年の日米野球で、敗れはしたが0対1の接戦を演じた沢村は、アメリカでは「スクール・ボーイ」の愛称で名が広まっていた。そんな沢村に危機が訪れたのは6月11日のミルウォーキーでの試合後。ひとりのアメリカ人からサインをねだられた沢村は、いつものことと差し出された紙に筆を走らせた。ところが、その人物はセントルイス・カージナルスのスカウトで、その紙は契約書だったのだ。なんとか事なきを得たが、日本は危うくプロ草創期の大エースを奪われかけた。

ハードな遠征を終えた一行は7月16日に日本に凱旋。「正しき組織の下に、本格的な野球を、本気でやること」と三宅監督が後に記したように、この遠征によってプロ意識というものが日本に持ち込まれ、翌年のリーグ創設につながった。収益的には大赤字に終わったというが、日本野球史においては大きな利益になったことは言うまでもない。

(文責=編集部)

掲載号/週刊ベースボール 2006年2月27日発行 第8号
取材協力/財団法人野球体育博物館
※記事は掲載時のまま転載しております。会期の終了した企画展や、現在は館内で展示していない資料を紹介している場合があります。ご了承下さい。


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