鎮魂の碑
年間8百万人を超える人々が訪れる東京ドーム。脚光を浴びている温浴施設ラクーア。人々の歓声と悲鳴がこだまする街の一角に、野球を愛し、野球に愛された男たちの物語がきざまれた碑があります。
「鎮魂の碑」と刻まれたこの石碑は、戦争に散華した選手の霊を慰めるために建立されたものです。プロ野球創設時から、大東京の代表、あるいはリーグの指導者として、その目で選手を送り、また、戦死の悲報を受け止めた、セントラル・リーグ鈴木龍二会長(当時)の悲願が、下田コミッショナー(当時)をはじめ、有志各位の協力を得て、1981年4月に旧後楽園球場脇に建立されました。1988年3月に東京ドームの完成にともない現在の場所に移設されました。
1937年7月7日蘆溝橋事件に端を発して、次第に拡大していった日中戦争、それに続く太平洋戦争に於て、プロ野球は多くの選手を失いました。苦難の道を歩んだ初期、プロ野球に多くのファンを引きつけた一代の名投手沢村栄治、熱血を以て知られる吉原正喜、巨人・阪神の州崎の決戦に快腕をふるった景浦将など、プロ野球の礎を築いた名選手の多くが、戦場におもむいたまま、ついに還らなかったのです。
日本プロ野球の草創期にその青春を燃やし、運命に翻弄された若者たち。毎年、8月15日の終戦記念日頃になると、碑の前には季節を飾る花々が献花されます。けっして忘れてはならない日本プロ野球史の物語がこの街の一角にはあるのです。
鎮魂の副碑(ちんこんのふくひ)
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追悼(ついとう)
弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。 召集(しょうしゅう)は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。「よし、ストライク10本」そこで、ボールとグラブと”敢闘”(かんとう)と書いた鉢巻(はちまき)を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。「野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない。」ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には、生もなく死もなかった。
遺族代表 石丸藤吉 |
建立の趣旨(こんりゅうのしゅし)
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この碑の建設にあたり協力したる有志の人々
池田恒雄(ベースボール・マガシン社社長) 石丸藤吉(親和交通社長) 下田武三(日本野球組織コミッショナー) 鈴木龍二(セントラル・リーグ会長) 角屋久次(新潟県県会議員) 保坂 誠(後楽園スタヂアム社長)
昭和五十六年四月 |
第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵(せんじん)に散華(さんげ)した選手諸君の霊を慰めるため、われら有志あいはかりてこれを建つ。
有志代表 鈴木龍二 |
鎮魂の碑に祭られた選手69名(五十音順)
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